【宇野信哉のHow to Draw】周到な準備と独自の水彩技法が生み出す、上質で軽やかな時代物の世界
宇野信哉さんは、時代小説など文芸書籍の装幀画や挿絵を数多く手掛けるイラストレーター。20代半ばに独立後、一度の挫折を経て見つけ出したのは、自らの趣味を活かした時代物だった。仔細な時代考証を活かしつつも読者の想像を裏切らない描写、セピアカラーを隠し味に軽やかさと透明感を感じさせる配色で、時代挿画の先駆者として活躍中。そんな宇野さんの「水彩」の技法を紹介する。
時代小説の表紙などでは、1枚2〜3日はかかるという制作時間。今回の作例では、元禄期の美剣士と武家娘を中心としたシンプルな構成でスピードアップを図っている。配色面では、セピアカラーの地色に赤や茶、黄、青などごく少ない色数からつくった色を、薄く何度も重ねる点が特徴だ。宇野さん自身は「地道で地味な描き方です」と笑うが、工夫と実験精神に満ちた手法は他の追随を許さない。顔に特にこだわりがあるという宇野さんが描く繊細な作品。その創作プロセスを以下に紹介する。
1.下塗りした背景から「白抜き」をする
宇野作品に欠かせないのが、予めベタ塗りした背景色を水で溶かして抜くことでつくる、微妙な色づくりと質感の表現だ。清書した下図を用紙に転写したら、記載しておいた配色と色抜きのメモを確認し、完全な白抜き、色を少しだけ残して抜くなどの作業を進める。
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01.背景を排除したシンプルな構図。「人物をシルエットにしても成立する、空間をいかした作品」をめざしていた初期作品に通じる作例となった。
02.下図裏に鉛筆を塗って簡易トレペをつくり、ホワイトワトソン紙に転写する。目鼻立ちなどのバランスが崩れないよう丁寧に。その後、セピアカラーを全体に塗っておく。
03.金糸刺繍を入れる武家娘の着物を白抜きをする。柔らかい水彩筆に水を含ませ、なでるようにして該当箇所の色を溶かす。
04.コシのある油絵用の筆に持ち替え、溶かした色を拭うようにウォッシング。やり過ぎると表面が毛羽立つため力加減には細心の注意を払う。
05.少しだけ色を抜きたい時は水を塗って少し時間を置き、溶け方を調整する。その後、折り重ねたティッシュでバレンのように抑えて均一に色を移し取る。
06.背景色を塗ったサンプル紙でセピアのトーンを確認する。失敗も最小限に抑えるためにも、色抜きの状態は必ずサンプル紙で実験して行う。
2.作品の配色基準となる「決め色」を塗る
着色は配色の軸になる箇所から行う。宇野が利用する絵具は、赤・茶・青などのベーシックな約7色の他、鮮やかさを重視した2〜3色。1〜2色の「決め色」を基準として混色し、相対的に明暗をつけていくことで色と彩度の幅を表現している。水彩はリカバリーがしづらい画材のため、やり直しの手間も考えて小さな面積から取りかかる。
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07.剣士の着物を塗る。ブラットバイオレットとロイヤルブルーを混ぜて薄めの紫色をつくる。鮮やかな色は粒子が沈みやすいため、使うごとによく混ぜる。
08.色の調子を見ながら手甲の小さな面を塗る。失敗してもこのサイズ感ならふきとりなどの修正が利きやすい。
09.広い面を塗り進める。細部も広い面もほぼ1本の水彩筆で塗っているが、色面のエッジは特に意識している。絵具をつけたら小皿の縁でよくしごき、穂先を尖らせた状態で塗るのがポイントだ。
10.使っていた絵具にさらに数色を混色し、より暗く見えるセピアカラーをつくる。服や肌、髪の影に薄く入れるだけでグッと陰影が増し、立体感も出る。
11-12.写真では剣士の完成後になっているが、軸となる色面から塗り始めるのは武家娘も同様。バーミリオンヒューとスカーレットレイキを混ぜ、少しくすませてから襦袢を塗る。小さい面積を塗る時は、穂先の中央を軽くしごくなどして量を調整する場合も多い。
TOOLS
宇野信哉さん愛用の道具類。
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ウォッシング用のコシが強いブラシタイプの油絵具用筆(01手前)と水彩画用の「Too.清泉シリーズ3」。清泉は穂先の鋭さや毛質の保ちのよさがお気に入りで、すでに何度もリピートしている。ティッシュ(02奥)は、色抜きの進行や絵具の量の調整、修正、拭き取りなどに幅広く活躍する。「最も使いやすいブランドはクリネックス」とのこと。
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水彩絵具のスタメンたち。赤・茶・青・黄・黒などを基本とし、描くモチーフに合わせて緑や紫、青など鮮やかな色を加えている。中央に見える練り消しは、顔などの細部や陰影の調整に使うことが多い。
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左から、ウォッシングして乾燥させた後に出る紙の繊維やゴミを取り去るための平刷毛。マスキングテープに下書き用シャープペン、仕上げに使う白と赤の色鉛筆など。
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背景色を塗ったサンプル紙。水彩は乾くと色が沈むため、塗った直後と乾燥後の確認は必須。重ねた時の発色や微妙な濃淡の出方などがわかっていれば、やり直しも少ない。
3.髪と顔、刀などで生気を吹き込む
着物の大きな面が完成したら、髪や顔の表情、刀など細かいパーツに取りかかる。髪のポイントはセピアを塗った上に生え際を書き加え、さらに薄墨を重ねることで生まれる自然なグラデーション。また顔のパーツは少しのズレで目鼻立ちの印象や与える雰囲気が変わってしまうので慎重に書き込む。
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13.細く薄く塗る時は、穂先に絵具がつきすぎないよう別筆から軽く移す。絵具の量を調整する手法の豊富さには驚くばかりだ。
14.頭部など墨ベタになる箇所は、下地としてセピアとバーミリオンヒューの混色を塗り、生え際を残して段階的にぼかしておく。乾いたら水を塗って中央に点で墨を落とし、乾かしながら周囲にぼかしてなじませる。
15.墨を塗った頭部の大半に髪を一本ずつ描き入れて生え際をつくる。グラデーションになるよう少しだけ色面をずらし、再度薄い墨で生え際を重ねる。
16.髪や顔の影にほんの少しだけセピアを塗り、立体感や陰影を出す。薄く溶いた絵の具と折り畳んだティッシュが自然な描写をつくる。
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17・18.下書きに沿って顔を描く。細部は一気に色を乗せず、少しずつ強めるのがポイントだ。線を重ねては余分な色をティッシュで抑える作業を繰り返す。唇の影や眉の周りにも薄めのセピアを重ねて陰影をつける。まぶたのラインを何度も微調整していた。
19.「本来は微調整に何日もかけるほど難しい」という顔の描写。こう描けば必ずうまく行くという正解はまだ見つかっていない。
20.べっ甲の櫛を塗る。下地として薄い黄色を塗り、セピアやスカーレットレイキ、ロイヤルブルーなどを混色した黄みの強いべっ甲色を重ねる。
21.刀の縁をマスキングし、ベースにスカーレットとペインズグレイを塗る。さらに濃度を上げたグレー系で鉄の冶金部分を描写する。
22.細い油絵用の筆に水を含ませる。毎回きれいな縁を探して穂先をしごくため、小皿に輪のような跡が残っている。
23.右側のエッジに沿ってベースカラーをウォッシングして波型に色抜きし、刃の描写をつくる。
4.着物の柄を描きこんで仕上げる
作品もいよいよ佳境に。仕上げ段階では、白鉛筆で墨ベタ部分に輪郭や服のシワを加え、着物や帯、剣士の着物や袴などの柄も描き入れる。中でも元禄時代の豪奢な金刺繍が入った柄を想定した武家娘の着物は丁寧に。普段から念入りに時代考証をする宇野だけあり、この柄も同時代の浮世絵作品を参考に、ほぼそのまま表現している。
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24・25.剣士の襦袢や腰紐、手甲に輪郭線を入れる。白鉛筆は昔からの愛用品だというステッドラーで、常に尖らせた状態で使うことが重要だ。写真にはないが、セピア系の墨ベタに白を塗ると青っぽく見えてしまうため、この後に必ず赤の色鉛筆と薄いセピアカラーを重ねてまとまりをもたせる。
26.剣士の着物に濃いめの紫色で柏文様(柏柄)を入れる。柄の繰り返し幅や着物の皺による柄、位置のずれなどに注意する。
27.武家娘の着物の柄は浮世絵を参考にしたもの。まず中間のセピアで扇を描き、同じセピアに墨や朱色を加えて墨柄、濃い朱色でさらに柄を重ねると3色刺繍の扇柄が完成する。
28.小豆色の帯にも織り柄を入れる。総柄の場合は全体に入れるとうるさくなるため、場所によって強調または抜粋して描き入れる。
29.セピアとペインズグレイで剣士の袴に飛雲文様を入れる。表現の際は必ず時代考証を行うが、事実であっても受け入れられない場合がある。見る人に違和感が出ない程度の折衷案を考えることも大切だ。
30.再び細部を調整。刀の柄や束の厚みなどにも質感を残しながら塗ることで、世界観が強くなり、まとまりを感じさせる作品になる。
●完成作品
取材を終えて
コミュニティFMをBGMに、ウォッシングをする筆の音が響く静かな空間。宇野の制作現場は、常に穏やかさと心地よい緊張感に包まれていた。20代半ばに独立したものの、過去にはプロとしての制作が難しくなる時期もあったという彼。新たな方向性を模索する中で出会ったのが、大好きだった時代小説の世界だ。時代物の雰囲気に合う「正統派の表現」とともに画材を探し続け、辿り着いたのが水彩絵具。「当時はお金がなくて」最低限の色数を購入したが、それが現在の混色ですべてを補う手法の習得に繋がっているというから驚きだ。
「色の鮮やかさは相対的な物なので、ある部分を鮮やかに見せたければ他を暗く塗ればいいんです」。作品には毎回「決め色」が設定され、それを軸に作品の配色構造が決まっていく。それ以外にもセピアカラーの背景色づくり、その背景色を水で消してつくる「色抜き」と抜き方を調整して表す質感、セピアカラーに重ねてつくる軽やかさを失わない墨ベタ、グラデーションがつくる繊細な髪の描写とさまざまなギミックが隠されている。これらは長年の工夫に基づいた、事前の周到な準備があってこそ成立するアイデアばかり。そして、すべてのメモは「設計図」と自ら語る下図に記され、着色チェック用のサンプル紙での実験を経て具体化されていく。水彩は一発勝負の側面が大きい。そのリスクを軽減するための施策なのだが、段取りに則った作業は伝統工芸やものづくりの職人の仕事にもどこか似ている。
さて、宇野の作品に欠かせないもう一つの要素が時代考証だ。ジャンルの性質上正確であることはもちろんだが、見る人に違和感を与えない程度に、表現を折衷する分析力も重要だ。ちなみに過去の作品では、井上靖『風と雲と砦』の表紙がそうした描写も含め「すべてでうまくいった」と一番のお気に入りだという。
お仕事では難しいけれど…と前置きしつつ「オリジナルなら、背景の要素を削ぎ落とした、例えばメインモチーフをシルエットにしても空間が印象に残る面白い絵を描きたい」と語る。また現在の技術を用いて、ノスタルジックさのある現代小説の挿絵に挑戦してみたいとも意気込む。そんな宇野さんの次作が楽しみだ。
【取材:木村早苗 撮影:松尾 潤 文責:イラストレーションファイルWeb】
■イラストレーター紹介
宇野信哉(うのしんや) 1974年生まれ。 93年北海道綜合美術専門学校卒業。 03年ギャラリーハウスMAYA装画コンペ大矢麻哉子賞。 時代小説等の文芸書籍の装幀画・挿絵を手掛ける仕事を中心に活動。 http://i.fileweb.jp/unoshinya/ |