第1回① 日本語の「イラストレーション」は1964年に始まった!? |イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談
─────イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談
第1回① 日本語の「イラストレーション」は1964年に始まった!?
「イラストレーション」とは一体どんな「絵」なのか、
「イラスト」と「イラストレーション」、呼び方の違いに意味はあるのか。
有名なあの描き手はどんな人なのか、なぜあの絵を描いたのか、
このイラスト表現はどうやって生まれて来たのか……。
イラストレーター界きっての論客(?)伊野孝行さんと南伸坊さんがユル〜く、熱く語り合う、イラストレーションをめぐるよもやま話。
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編集部:このWEB連載は「イラストレーションについて話そう」と題して、イラストレーションにまつわるさまざまなテーマ、人物(描き手)や表現、メディアなどを取り上げて、ざっくばらんにお二人にお話ししていただければと思います。
南伸坊(以下、伸坊):イラストレーションの歴史みたいな話って、学者がやったら全然面白くないし、プロのイラストレーターがやってもマジメになっちゃってつまんないんだ(笑)。雑談の中で出て来る話が一番面白いんだよね。
伊野孝行(以下、伊野):そう、絵の話は酒呑みながら、話しっぱなしが一番楽しいですねぇ。でも今日は麦茶だし、録音されてるからなぁ……。そういうわけで、わたくし、今日はちょっと固くなっております。
ま、言葉の定義にもよると思うんですけど、イラストレーションの歴史って遡ろうと思えばいくらでも遡ることは出来ますよね。イラストレーションに明確な「始まり」があるとは僕は思っていないんですけどね。
編集部:鳥羽僧正*1の「鳥獣戯画」をイラストレーションや漫画のルーツとする説がありますけど、異論を唱える人も多い。西洋でも鑑賞芸術としての絵画は近世以降のもので、それ以前の画家は全て職業画家で今のイラストレーターに近いという話になりますが、そうやっていくとキリがないですね。
伸坊:そんな昔のことから話してく必要ないんじゃない?
伊野:そうですね。モダン・イラストレーションを軸にして、思いつくことを話していくって感じで。
伸坊:出て来た人名に喚起されて、さらに話が転がることもあるしね。
*1 鳥羽僧正(1053-1140) 平安時代の天台宗の高僧・覚猷(かくゆう)の俗称。絵画に精通し、「鳥獣戯画」や「信貴山縁起」の作者とされる。
■「イラストレーション」という言葉に込められた意味
伸坊:「イラストレーションの始まり」って話が出たけど、僕らが今「イラストレーション」と呼んでいる種類の絵にはハッキリ始まりがあるんですよ。そもそも英語の「Illustration」と日本語の「イラストレーション」というのは分けて考える必要がある。カタカナの「イラストレーション」はデザイナー出身の人たちが始めたものなんだ。和田誠*2さん、宇野亞喜良*3さん、横尾忠則*4さん、灘本唯人*5さん、山口はるみ*6さん、山下勇三*7さんといった人たちが「東京イラストレーターズクラブ」*8っていう団体を作ったのが1964年。つまり、それが世間的にイラストレーションが認知される始まりなんです。
伊野:英語の「Illustration」とカタカナの「イラストレーション」は違うと!
すごく魅力的な見出しになりそうですけど、話がちょっと難しい方向に行きそうな予感もします(笑)。
伸坊:「日本語にした」ということなんだよ。
伊野:そう、「日本語にした」という入り方だったら分かりやすいですね。戦争が終わって、主にアメリカの文化がどんどん入ってきて、世の中が新しくなっているのに挿絵画家のような絵じゃそれを描き表せない。
新しい時代のものごとは新しい描き方で描きたい。そう思った人たちが自分たちの絵を何と呼ぼうか考えた。海外じゃ「イラストレーション」て言ってるらしいぞと。その時に英語の「Illustration」にはない意味っていうか、気持ちが、日本語の「イラストレーション」に込められたんですね。英語の「Illustration」の本来の意味は、「絵の役割」や「絵の機能」のことを指し示す言葉にすぎないから、新しいも古いもないんですけど。
1964年頃に「イラストレーション」と言い始めたのだから、日本のイラストレーション史をそこで区切るのはわかります。そして早々と2〜3年後には「イラスト」という略称で世間に広がった。
伸坊:そうそう、すぐ「イラスト」になっちゃうんだ。でも2〜3年かな? もうちょっと後かもしれない。伊野君は「イラスト」の世代なんだよね。
伊野:2〜3年じゃないんですね。じゃあ訂正、もうちょっと後です(笑)。ペラペラしゃべってますけど、その時、僕はまだ生まれてませんからね。バリバリの「イラスト」世代ですよ。
僕は1971年生まれで、伸坊さんとちょうどふた回り違うんです。高校生の伸坊さんが和田さんを見て衝撃を受けたように、24年後の高校生の僕は、蛭子能収*9さんの絵を見て、こんな風に描きたい!って衝撃を受けてましたから。
伸坊:エーーー!! そうかぁ、そうなんだよなァ、なるほど。オレたちって年離れてんだなあ。
伊野:「イラスト」がイラストレーションの略語だというのは知っていましたけど、「イラスト」と縮めるのがいけないことだと分かったのは、自分がイラストレーターを志望してからです。
伸坊:あーそうだよねー。和田さんや(安西)水丸*10さんが「イラスト」って縮められるの好きじゃないって聞いて、「だってイラストじゃん」って思ってた(笑)。でもそれが考えるきっかけになったっていうのはありますね。なるほど、その言葉に込められた想いというのがあったんだなぁと。それは同時代的に分かるんだ。
伊野:和田さんは「イラストと呼ぶのはパンティーストッキングをパンストと略すみたいで、ちょっと下品でイヤだ」と言ってましたよね。水丸さんはTIS(東京イラストレーターズ・ソサエティ)の集まりの時によく「クレジットがイラストになっていたらちゃんとイラストレーションにしてもらいなさい」って言ってました。
伸坊:でも今さ、「パンティーストッキング」って正式に言うと、正式にやらしいよね(笑)。
伊野:「ぱんてぃーすとっきんぐ」って平仮名にするとまた別種の味わいも……(笑)。ともかく、僕はそういう躾を受けてるんで「イラストレーション」といちいち言ったり、書いたりしてるんですが、伸坊さんはエッセイで普通に「イラスト」って書いてて(笑)、そんな伸坊さんを見てて、最近は別に「イラスト」でいいかなって。
伸坊:アハハ、外来語を日本語化するには略さないと、っていうのはあるんですよ。日常的に話されるには、イラストレーションてのはちょっと長い。だいたいこれまでの流行り言葉や外来語は、4文字ぐらいで安定するんだ。「アイデンティティー」は例外的に長いんだけどね、赤瀬川(原平)*11さんは「アイデンティー」でいいじゃないか、「ティー」は2回もいらないって(笑)。それでも7文字だけどね。
伊野:ははは、「イラストルポ」とか「イラストマップ」と言うけど、「イラストレーションルポ」とは言わないですもんね。
伸坊:「ルポ」だって「ルポルタージュ」だし、略されるのは日本語にする以上は仕方ない。それより、どうしてその時代に挿絵を「イラストレーション」と言い換えたかったか、ってのが重要なんだ。比べてみれば一発で分かると思うんだけど、もう全然絵が違うんだよね。それまで「挿絵画家」と呼ばれる人たちが描いてた絵と、「イラストレーター」と名乗って新しく始めようとしている人たちの絵が全然違う。一番の違いは、デザインとの関わりです。つまりデザイン感覚のある絵。
でも、それまで日本にはデザインがなかったのかって言ったら、もちろんあるわけだよね。イラストレーションがなかったのかと言えばやはりあったんだけど、それを今の時代の「新しいもの」として捉えたいという気持ちがその言葉を選ばせたってことじゃないかと思う。
もともと日本人にはデザインに対する鋭い感覚があったんですよ。江戸の浮世絵の時代にもう絵本文化があったわけだし、それならエディトリアル・デザインもレイアウトの感覚も当然ある。
*2 和田誠(1936-) 多摩美術大学在学中の1957年に日本宣伝美術会賞(日宣美賞)を受賞。ライトパブリシティー勤務後、フリー。雑誌の表紙や挿絵、書籍装丁、絵本など幅広く手がける。1977年より担当する『週刊文春』表紙が2017年で2000回目を迎えた。
*3 宇野亞喜良(1934-) カルピス食品工業、日本デザインセンター、スタジオイルフィルを経てフリー。幻想的でロマンティシズム溢れる絵世界で知られ、特に少女をモチーフにした作品が人気。イラストレーションの他に舞台美術やキュレーションなどを手がける。
*4 横尾忠則(1936-) 神戸新聞社、ナショナル宣伝研究所、日本デザインセンター、スタジオイルフィルを経てフリー。雑誌のアートディレクション、書籍装丁、挿絵、ポスター制作などを幅広く手がけ、80年代以降は主に美術に軸足を置いて活動している。
*5 灘本唯人(1926-2016) 山陽電鉄嘱託、早川デザイン事務所を経てフリー。飄々とした線描から写実に近いタッチまで幅広い画風で挿絵や装画などを多数手がける。大胆にデフォルメした独特の美人画でも知られた。
*6 山口はるみ 西武百貨店宣伝部、ヴィジュアル・コミュニケーション・センターを経てフリー。1969年のパルコオープンより、イラストレーターとして広告宣伝に参加。72年頃よりエアブラシによるスーパーリアル手法で主に女性を描き、「HARUMI GALS」と呼ばれて人気を博した。
*7 山下勇三(1936-2008) 多摩美術大学とライトパブリシティで和田誠の同期。63年山下デザインスタジオ設立。キューピーのパッケージや広告を手がけ、装画や挿絵の仕事も多い。広島出身で、後年は原爆や反戦をテーマにした作品を多数制作。
*8 東京イラストレーターズクラブ 宇野亞喜良、灘本唯人、山口はるみ、横尾忠則、和田誠らが中心となり1964年結成されたイラストレーターの団体。「年鑑イラストレーション」の刊行と会員によるグループ展を主な活動とした。70年に活動休止。
*9 蛭子能収(1947-) 看板屋を経て『ガロ』で漫画家デビュー。不条理でシニカルな漫画作品で評価を得る。代表作「地獄に堕ちた教師ども」。テレビタレントとしても活躍。
*10 安西水丸(1942-2014) 日大芸術学部卒業後、電通、平凡社を経てフリー。平凡社在職中に『ガロ』でデビュー。シンプルな線画と色面表現で、挿絵や装画などを多数手がけ、特に村上春樹との仕事で知られる。
*11赤瀬川原平(1937-2014) 前衛芸術家。ハイレッドセンター、路上観察学会などの組織に参加。芸術作品としてニセ千円札を発表し、通貨及証券模造取締法違反で起訴・裁判となる。文筆家・漫画家としても活動し、尾辻克彦のペンネームで芥川賞受賞。美学校創設より「絵・文字工房」で教鞭を執り、久住昌之、南伸坊、渡辺和博らを輩出。
■小村雪岱とデザインの結びつき
伸坊:例えば、ちょっと前の小村雪岱*12なんかすごくモダンなデザインでしょ。その雪岱が引用した鈴木春信*13なんて、モロ、デザインだよね。雪岱が春信をデザイン的に昇華したって言う人が多いけど、春信の絵がもうすでにデザインなんですよ。
伊野:それで、僕は今回、小村雪岱の話をしたいなと思ったんです。イラストレーション史を1960年代で区切ると雪岱が入らなくなってしまうんですよ。
まず、僕が雪岱を知ったのは二十代半ば。神保町の喫茶店でバイトしてて、休憩時間に古本屋で平凡社の『名作挿絵全集』というのを見てたら、すげーカッコいい絵があるなと思って。その時、小村雪岱は知る人ぞ知るという感じでした。伸坊さんの学生時代はすでに雪岱は忘れられていたんですか?
伸坊:完全に忘れられてましたね。当時のデザイン学校の先生とかは雪岱を現役で見てた世代だったと思うけど、先生たちにとっては過去の人なんだ。僕は草森紳一さんが書いてた文章を読んで、どんな人なのかなァって絵見たらすんげーカッコいい。

小村雪岱 「浪人倶楽部」(村松梢風作/1935〜36年讀賣新聞連載) 挿絵
「小村雪岱画譜」(龍星閣/1956年)より転載
伊野:雪岱は挿絵も描くし、デザインもやった。本の装丁や舞台美術、映画の時代考証なんかも手掛けている。マルチです。やっていることは本質的に和田さんや宇野さんなどの60年代以降のイラストレーターに近いですよね。
伸坊:まさにそうなんだ。小村雪岱がデザインと最初からくっついてたっていう話は重要で、今イラストレーションがアニメの絵やマンガの絵に駆逐されてるってさぁ(笑)、そういう話があるじゃない。一番編集者が分かってないのは、このデザイン感覚があるかないかってとこなんだけど、その意味で今のイラストレーターにとっても、小村雪岱の方法はヒントになると思うんですよ。
編集者がアニメやマンガに飛びつくって、単に「目先を変えたい」ってことなんだ。イラストレーターにも責任があって、目先を変えたい世間てのが見えてないんだよ。
埼玉県立近代美術館で雪岱の展覧会があった時に、雪岱が小説雑誌の表紙を描いたの出てたの覚えてる?小説雑誌ってゴチャゴチャ見出しとか作家名とかいろんな字が入ってるじゃん。そうなると雪岱の絵が途端に普通っぽくなっちゃってるんだ。もう、無残!な感じ。
伊野:そうですね、当時は編集者がデザインもしてたんでしょう。あぁ!だめだめ、そんなところに字を置いちゃ!って、叫びたいですよ。
伸坊:小村雪岱はデザイナー出身だから、絵にデザインとレイアウトの考え方が入ってる。新聞小説だと周りに字が入って、ここ(中央)のスペースに絵が入るって分かって描いてる。
伊野:そんな雪岱がイラストレーション史に入らないのは二重の意味で惜しいんです。雪岱は雪岱になるために、江戸時代にまで歴史を遡って、鈴木春信を見つけた。そして春信をズドーン!とハンティングしてきたんですよ。
区切りがないからどこまでも遡れた。自分の猟場をいかに広く持つかということに、僕は興味があるんです。絵を描く人は雪岱と同じハンターなんですから。で、お腹の中で他のものと混ぜ合わされて出てきたウンコが「雪岱調」なんですね(笑)。雪岱の絵って、モダンだけど情念を感じさせるんですよ。その矛盾に惹きつけられる。この人、何食ったんだろう?と思わせる、惚れ惚れする立派なウンコですね。
雪岱は区切りを設けず、歴史を遡った人なのに、その人が区切られてしまう。二重の意味で惜しいというのはそういうことなんです。だから、小村雪岱って最初に話すテーマにいいんじゃないかと。

伊野孝行画・雪岱 shoots 春信
伸坊:そう、そのことを言いたかった。伊野くん、気が合うねえ(笑)。ハッキリ言って、日本のイラストレーションって欧米のパクリだったよね。なにしろ、アメリカのデザインがものすごく新鮮だった。今、日本もアメリカもヨーロッパも横一線になったんで、他の手を考える時なんですよ。雪岱は春信を引用して徹底したことで雪岱になった。
*12小村雪岱(1887-1940) 東京美術学校(現東京芸術大学)で下村観山に師事。在学中に泉鏡花と知遇を得て、1914年の鏡花の「日本橋」の装丁を手がけ、以後、狂花作品の装丁をはじめ、挿絵の仕事を多数手がける。一時は資生堂意匠部に在籍(1918〜23年)。舞台美術でも活躍した。
*13鈴木春信(1725?-70) 江戸中期に活躍した浮世絵師で、多色摺木版画による錦絵の成立に貢献した。当世風俗や実在の人物を古典的画題に当てはめた「見立絵」を多数制作、中でも美人画でよく知られる。
<その2>につづく
<プロフィール>
伊野孝行 Takayuki Ino
1971年三重県津市生まれ。東洋大学卒業。セツ・モードセミナー研究科卒業。第44回講談社出版文化賞、第53回 高橋五山賞。著書に『ゴッホ』『こっけい以外に人間の美しさはない』『画家の肖像』がある。Eテレのアニメ「オトナの一休さん」の絵を担当。http://www.inocchi.net/
南伸坊 Shinbo Minami

亜紀書房WEBマガジン「あき地」(http://www.akishobo.com/akichi/)にて「私のイラストレーション史」連載中。
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