挿絵の「正統」をどこに求めるか|イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談


 
─────イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談

第2回④ 挿絵の「正統」をどこに求めるか

「イラストレーション」とは一体どんな「絵」なのか、
「イラスト」と「イラストレーション」、呼び方の違いに意味はあるのか。
有名なあの描き手はどんな人なのか、なぜあの絵を描いたのか、
この表現はどうやって生まれて来たのか……。

イラストレーター界きっての論客(?)伊野孝行さんと南伸坊さんが
ユル〜く、熱く語り合う、イラストレーションをめぐるよもやま話。

イラストレーターが台頭する以前に活躍した挿絵画家は日本画出身者が多かった。
しかし、明治維新以降に誕生した日本画を挿絵の「正統」とする考えには、
二人は少々異論があるらしい。

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アイコン第2回_2

■挿絵の「正統」は日本画が起源ではない

伊野孝行(以下、伊野):僕は小村雪岱を初めて見て、どこかの雑誌で特集して欲しいなと思ってたんですけど、そんな時に我らが『イラストレーション』誌が岩田専太郎の特集をしたからガッカリして(笑)。

編集部:特別付録の形で昔の座談会*32を再録したものですね。挿絵画家の心得みたいな話題。日本画の流れを引く、いわゆる「正統派」の挿絵画家の人たちで、他に志村立美*33や小林秀恒*34などが入っていたと思います。

伊野:あれ? みんな美人画系ですね。でも、日本画の流れを引く「正統派」ってなんでしょうね。そもそも日本画というのは明治に入ってから洋画に対抗して国策的に作られたもので、実は浮世絵なんかとは直接つながっていない。だから、そこから挿絵がつながっているとすると、挿絵の正統って何なの? それを日本画に求められてもなぁと思っちゃうんです。

伊野孝行画 「昭和10年代の美人はこんな顔」

伊野孝行画 「昭和10年代の美人はこんな顔」


 
編集部:浮世絵の表現をある程度受け継ぐ形で日本画は成立しているわけですよね。

南伸坊(以下、伸坊):いや、僕が思う感じでは、浮世絵が発展した時って、生き馬の目を抜くような競争があるところで、幕府からの禁制もあったりって中でいろいろ工夫した。その工夫が面白かったことで、いろんなテクニックが発明されたと思う。

明治維新で西洋崇拝みたいになっちゃって、江戸期に浮世絵師達がそうして切磋琢磨して創り出した財産をほっぽり出しちゃった。

ところが、宮武外骨*35が創った雑誌、例えば『滑稽新聞』*36では浮世絵師の残党を起用したんです。墨池亭黒坊*37っていう人がいて、絵のスタイル自体は浮世絵なんだけど、ものすごく工夫する人で、いわゆる明治の西洋風写実画を描いてた人たちとは違うセンスがある。宮武外骨の雑誌が創り出したイメージと、当時の一般的な大新聞や大出版社が出してた雑誌のイラストレーションとは、見れば違いがはっきり分かります。

伊野:伸坊さんの坊の字は黒坊から来てんですよね。このあいだ『滑稽新聞』をパラパラ見たんですけど、ぜんっぜ〜ん、古くない。他のとはぜんっぜ〜ん、違いますよね。浮世絵師たちがだんだん時代遅れになっていったというのは、自分たちでそう思い始めたのか、世間がそう考えたのか知りませんけど、「錦絵新聞」*38とか、ああいうところで描いたりして、その後は消息が分からないっていう。

墨池亭黒坊『滑稽新聞』第148号表紙(滑稽新聞社/1907年)

墨池亭黒坊『滑稽新聞』第148号表紙(滑稽新聞社/1907年)

『滑稽新聞定期増刊絵葉書世界』第17集(滑稽新聞社/1908年)より墨池亭黒坊「強制接吻」 2点とも『宮武外骨・滑稽新聞 絵葉書世界』(赤瀬川原平・吉野孝雄編/筑摩書房/1985年)より転載

『滑稽新聞定期増刊絵葉書世界』第17集(滑稽新聞社/1908年)より墨池亭黒坊「強制接吻」
2点とも『宮武外骨・滑稽新聞 絵葉書世界』(赤瀬川原平・吉野孝雄編/筑摩書房/1985年)より転載


*32 昔の座談会 「岩田專太郎編 挿絵の描き方」(新潮社・入門百科叢書/1938年)に掲載された座談会。岩田とともに、共著者である小林秀恒、富永謙太郎、志村立美、林唯一が挿絵について語っている。『イラストレーション』No.140(2003年3月号)に巻末綴じ込み付録として再録。

*33 志村立美(1907-80) 山川秀峰に日本画を学び、山川の推薦で雑誌の口絵や挿絵の仕事を始める。林不忘「丹下左膳」の挿絵が評判となり、岩田專太郎や小林秀恒とともに「挿絵三羽鳥」と称された。後年は挿絵をやめ、日本画、美人画制作に専念。

*34 小林秀恒(1908-42) 池上秀畝、山川秀峰に師事。菊池寛の「貞操問答」の挿絵で注目を集め、その後も江戸川乱歩や野村胡堂、吉屋信子など多数の作家の挿絵を手がけたが、34歳の若さで死去。SF画で人気となった小松崎茂は唯一の門下生。

*35 宮武外骨(1867-1955) ジャーナリスト、編集者。『頓知協会雑誌』『滑稽新聞』『スコブル』などの雑誌や新聞を創刊。諷刺記事や戯作で評判を得るが、しばしば筆禍を招き、不敬罪、風俗壊乱罪などに処せられた。戦後は東京大学付属明治新聞文庫の主任となり、新聞史の研究や資料収集を行った。

*36 『滑稽新聞』 1901年に宮武外骨が大阪で創刊。時の権力者や、それに迎合するメディアなどを風刺やパロディで痛烈に批判し、下世話な話題も取り上げて成功を収める。外骨は複数のペンネームで大半の記事を執筆したが、多くの編集者・ジャーナリストも匿名で寄稿している。何度かの発禁処分を受け、外骨も禁固刑を受けている。

*37 墨池亭黒坊 『滑稽新聞』でデビューして人気となった浮世師で、本名など素性は不明。色黒だったのでこの名を名乗ったという説がある。『滑稽新聞』には墨池亭黒坊のほか竹久夢二など、多くの画家が匿名で表紙絵や挿絵を提供した。

*38 錦絵新聞 新聞記事を錦絵(浮世絵版画の一種)によるヴィジュアルと平易で短い文章で伝えた印刷物。1874年に発行された「東京日日新聞」の錦絵版が最初で、まだ識字率が低い時代において大衆に広く受け入れられ多数発行されたが、やがて挿絵を単色刷りにした小新聞に押され姿を消した。

 

■明治における絵画のグローバリゼーション

伊野:平凡社『名作挿絵全集』は月岡芳年*39から始まっているんですけど、芳年は歌川国芳*40の弟子でしたよね。僕は国芳は浮世絵のしんがりを務める絵師だと思ってるんですけど、その後の芳年になると、線だけ見ると浮世絵というより現代の劇画のような感じ。時代が変わり始めたなって、いう。

伸坊:分かる、明治のあのへんのつまらなさね(笑)。

伊野:芳年は、浮世絵の様式が崩れて腐り始めてる時代だと思うんですよ。だから、血みどろの絵を描くと凄惨でぴったりなのかな。

伸坊:国芳は西洋画にものすごく興味を持ってたんですよ。で、例えば「忠臣蔵」の四十七士討ち入りの場面を、向こうの石版画の遠近法の構図をそのままベースにして描いたりしているんだけど。変な絵だけど、「面白いことやってやれ」って気分は伝わって来る。

芳年の方はちゃんと遠近法を使いこなしてるんです。ところが、明らかにデッサンが狂ってる国芳の絵の方が面白いんだよ。ちゃんとすればするほどつまらなくなってく。

伊野:芳年の絵にもかなり写実的な要素も入って来てますが、その後、明治になると本格的に写実、写生が入って来る。その考えに捉えられると、どこの国も同じような絵になって、それぞれの地域の独自性が失われてしまう。写実、写生って絵画のグローバリゼーションですかね?(笑)。

伸坊:そうだと思うね。小林清親だって元は浮世絵師みたいなものじゃないですか。「光線画」ってのを発明して、あの時期はすごくいいんだけど、その後はヨーロッパ風の漫画を描くようになる。なんかフツーの漫画風になっちゃうんだよなあ。

伊野:風刺画は、あれは「光線画」ではやっていけないからそうなったんですか。

伸坊:そうなんじゃないですか、描かなくなっちゃうわけだから。

伊野:でも、光線画が一番いいですよね。光線画って、ガス灯とか煉瓦街とか当時の新しいものを描いてるのに「失われていく何か」を感じますね。

伸坊:そう、いいよねえ。オレは清親を初めて知ったのTVの画面でだったんですよ、ものすごくキレイだった。それまでの日本の絵が描かなかった水に映る影とか、陰影の表現とかも木版画のノウハウがあったし、彫り師や摺り師の技術的も高いものがあったからちゃんと出来た。それがすごくキレイにうまく行ったんだね。

伊野:やっぱり(浮世絵の)彫り師や摺り師の技術が……。

伸坊:その技術が作ってた魅力は絶対あるね。河鍋暁斎*41もうまいから漫画を描いてるんだけど、それだったら当時日本にいた『ジャパンパンチ』*42の人の方が……、暁斎もマネした。

伊野:えっと、ワーグマンですか?*43

伸坊:そう、ワーグマン。ワーグマンの絵は古いと思わないのに、暁斎は古く感じるってどうしてかな。暁斎、うまいんですよ、すごく達者なのテクニックが。それがなんかイヤ味なんだよなぁ(笑)。それでいうと、中村不折のユーモラスな絵はうまくいってるよね。

伊野:この時代の風刺画のことを研究してる清水勲さん*44が、いろんな絵を集めた本を出してますけど、『滑稽新聞』だけを見るとすごくセンスがよくて面白いんだけど、他のと合わせてシリーズ総体で見ると、明治の風刺画って古くさくて、興味持てなくなっちゃうんですよね(笑)。

伸坊:学者だからかな、絵の集め方が。「いい絵」を集めているわけじゃないし。

伊野:ビゴー*45も歴史の教科書に載ってる「三国干渉」の風刺画みたいなのより、日本人の生活を描いたのが面白い。古くない。これは外国人が日本を観察して写生した面白さみたいなものがそのまま絵に出てるからなんですよね。ある意味、今の僕たちも外国人みたいなところがあるから、一緒に面白がれる。で、ビゴーはフランスに帰ったら全然面白くない。

ジョルジュ・ビゴー「東京芸者の一日」 「精選 名著復刻全集」(日本近代文学館/1979年)より転載

ジョルジュ・ビゴー「東京芸者の一日」
「精選 名著復刻全集」(日本近代文学館/1979年)より転載

伊野孝行画 「ジョルジュ・ビゴーの肖像」

伊野孝行画 「ジョルジュ・ビゴーの肖像」


 
伸坊:へえー、やっぱり「視線」なのかな。「日本、面白い。描きたい」と思って描いてる。ワーグマンの絵に出て来る武士の絵とか、面白いよね。描いてる本人が面白がってる分、面白いんだろね。

伊野:日本人だったらそんなのいちいち絵にしないよ、っていう場面も、ビゴーには新鮮に映るから描いちゃう。彼にとっては「絵になる」ポイントだったんですね。でも、ビゴーの風刺画には絵的に感じるところがあまりないんだなぁ。

伸坊:『滑稽新聞』の絵はだいたいなんかサービスがあるんですよ、ただ描いているんじゃなくて、なんか面白がらせてやれっていう。工夫があるの。

(第3回は12月1日公開予定です)


*39 月岡芳年(1839-92) 幕末〜明治にかけて活躍した浮世絵師。歌川国芳の門下で、武者絵、歴史絵、美人画、風俗画など幅広く描いたが、中でも妖怪画や無惨絵は後世の人気が高い。新聞錦絵や新聞・雑誌の挿絵なども手がけた。「最後の浮世絵師」と呼ばれ、門下生に洋画を学ばせたり、自身も洋画の手法を取り入れたりしている。

*40 歌川国芳(1791-1861) 江戸末期の浮世絵師。歌川豊国の門人で、勇壮な武者絵や生き物を擬人化した作品、精密な化け物絵など幅広い画風で人気となった。西洋画の遠近法や陰影表現を研究し、自身の浮世絵に取り入れたことでも知られる。

*41 河鍋暁斎(1831-89) 幕末〜明治初期に活躍した浮世絵師、画家。歌川国芳に入門、後に狩野派、土佐派、琳派などの技法を学び、風刺画や戯画で人気を得る。卓越した画力で水墨画、花鳥画、仏画、幽霊・妖怪画まであらゆる画題や画法で描いた。

*42 『ジャパン・パンチ』 英国人漫画家チャールズ・ワーグマンが創刊した漫画雑誌。ネーミングは英国の諷刺漫画雑誌『パンチ』(Punch/1841年創刊)に由来する。当時の日本で漫画を「ポンチ絵」と呼んだのは、『ジャパン・パンチ』が語源になっている。

*43 チャールズ・ワーグマン(1832-91) イギリスの『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の記者兼挿絵画家として1861年来日。翌62年には居留外国人向け雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。日本の風景や風俗を描いた油彩画や水彩画を多く残した。91年横浜で没。

*44 清水勲(1939-) 漫画・風刺画研究家。三省堂、リーダース・ダイジェスト勤務を経て、1984年より研究・著作に専念。江戸・明治時代〜現代の漫画や風刺画を研究しており、特にジョルジュ・ビゴーに関する著作が多い。

*45 ジョルジュ・ビゴー(1860-1927) パリ出身。エコール・デ・ボザール中退後、挿絵を始める。この頃に日本美術と出会い、1881年来日。絵画の講師やフランスやイギリスの新聞の報道画家をしながら日本の庶民の生活を記録する。日本の雑誌や新聞にも漫画や挿絵を寄稿、87年には居留外国人向け風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊。99年に帰国、後年は大衆娯楽出版物の挿絵などを手がけた。


<プロフィール>

伊野孝行 Takayuki Ino
伊野自画像81971年三重県津市生まれ。東洋大学卒業。セツ・モードセミナー研究科卒業。第44回講談社出版文化賞、第53回 高橋五山賞。著書に『ゴッホ』『こっけい以外に人間の美しさはない』『画家の肖像』がある。Eテレのアニメ「オトナの一休さん」の絵を担当。http://www.inocchi.net/


南伸坊 Shinbo Minami
南自画像21947年東京生まれ。イラストレーター、装丁デザイナー、エッセイスト。著書に『のんき図画』(青林工藝舎)、『装丁/南伸坊』(フレーベル館)、『本人の人々』(マガジンハウス)、『笑う茶碗』『狸の夫婦』(筑摩書房)など。
亜紀書房WEBマガジン「あき地」(http://www.akishobo.com/akichi/)にて「私のイラストレーション史」連載中。
 
 
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