第19回後編 「自由に描きなさい」は実は間違い、やっぱりお手本は必要|イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談


─────イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談

第19回後編 「自由に描きなさい」は実は間違い、やっぱりお手本は必要


イラストレーター界きっての論客(?)伊野孝行さんと南伸坊さんが
イラストレーションを軸に、古典絵画や現代アート、漫画、デザインなど
そこに隣接する表現ジャンルについてユル〜く、時には熱く語り合う。


最終回も、途中からあらぬ方向へ話が脱線するいつもの通りの展開。
しかし、そうやって飛び出した画家や表現の話題が、
めぐりめぐってまたイラストレーションに繋がっていくのだ。

 

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第19回アイキャッチ

■絵になる美人と生身の美人

南伸坊(以下、伸坊):明治から大正、昭和初期とかの日本画の人ってさ、「ほんとにこういう顔が美人だと思ってんの?」って顔描くね。舞妓の顔、なんでこんなヘンな顔にする? って。あれどうしてなんだと思う?

伊野孝行(以下、伊野):大正の日本画って変な絵多いですよね。

伸坊:着物の柄とかはすごく丁寧にきれいに描いてるのに、顔がすげえ不気味とか。舞妓の絵にそういうの多いと思う。でも、少女漫画とか中原淳一みたいな顔がそこにあったら「絵にならない」ってのは分かるんだ。絵にするために、そういう顔になるんだろうとは思うんだけど。あのほら、う〜ん名前出て来ない、たぶん見たことあると思うんだよね、日本画のさ、有名な。

伊野:甲斐荘楠音*13?

伸坊:ああ、甲斐荘はデロリだからな。もうちょっとメジャーな、誰だっけなー。あ、あ、速水御舟*14。

伊野:ああ、速水御舟。僕好きですよ、御舟の絵。でも、確かに女性は不気味ですよねえ。畳の目までしつこく描いたりさ。

連載19_7_京の舞妓

速水御舟「京の舞妓」(1920/東京国立博物館蔵)
日本画における写実表現を追求した作品で、着物の柄や畳の目、白粉を塗った顔までが緻密に描き込まれている。当時は賛否が分かれたが、現在では御舟の代表作の一つと位置付けられている。

 

伸坊:絵の美人と生身の美人は違う、みたいなこと話したかったんだけど。例えば写真に撮ってきれいだっていうプロポーションじゃ、華奢になっちゃって絵としては弱くなっちゃう。彫刻なんかでも存在感を出すために、足ぶっとくしてボリューム強調したりするじゃない。

伊野:ええ、デフォルメしますよね。わざとブサイクにしたり。美人画も多少のデフォルメは加えるんだろうけど。

(現代の美人画の作品集を見ながら)でも、最近は女性が多いんですね、美人画を描いてる人。こういうのを描くのは脂ぎった男であって欲しいのに(笑)。

編集:現代の傾向はそうですね、女性が女性を描く。

伊野:この前、京極夏彦*15さんの絵本で『おしらさま』というのを描いたんですけど、初めて「美人」を描いてみたんです。女性がきれいに描けると割とうれしいもんだなーって、ちょっと思いましたね(笑)。

連載19_8_おしらさま

伊野孝行画『おしらさま』(京極夏彦作/汐文社/2018)
汐文社『えほん遠野物語』シリーズの一冊。おしらさま(蚕神)は東北地方に伝わる家の守り神。御神体は娘と馬の顔が彫られ2体で一対になっていて、それにまつわるエピソードが描かれる。

*13 甲斐荘(甲斐庄)楠音(1894-1978) 日本画家。京都市立美術工芸学校で竹内栖鳳(1864-1942)に学び、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。女性をモチーフとした作品が多いが、モデルの欠点が強調されたややグロテスクで暗い画調で異彩を放ち、岸田劉生に「デロリとした絵」と評された。一時は画壇から離れ、映画の衣装や風俗考証を手がけたが、晩年再評価された。

*14 速水御舟(1894-1935) 日本画家。松本楓湖(1840-1923)に師事、楓湖にその才を見出される。初期作品は南画の影響が強く、やがてそれまでの日本画にはない徹底した写実と細密描写に変化し、後年は琳派の装飾的要素や西洋画の手法を加えた作風となる。腸チフスにより40歳の若さで没した。

*15 京極夏彦(1963-) 小説家。ミステリー・推理小説、怪談・妖怪ものを得意とし、『後巷説百物語』(2001)で直木賞受賞。近年は怪談えほん『いるのいないの』(2012/岩崎書店)、京極夏彦の妖怪えほんシリーズ(2013〜15/岩崎書店)、など妖怪・怪談ものの絵本を多数手がけ、『おしらさま』はえほん遠野物語シリーズ(2016〜/汐文社)の1冊。デザイナー出身で、DTPソフトで原稿執筆を行い、装幀家としての顔も持つ。

■先生がいない方が絵は面白くなる

伸坊:いろんな話しましたけど、まあ使えるとこだけ使ってもらって。伊野君の亜欧堂田善の話も面白かった。だいたい外国と日本が接触した時の絵ってなんか面白いよね、幕末の横濱絵*16も好きだし、描いた本人が「珍しいもの見た! 面白かった!」って思ってるような絵は面白い。

連載19-09歌川貞秀「神名川横濱新開港圖」

歌川貞秀「神名川横濱新開港圖」(1860/国立国会図書館蔵)
横濱絵の初期の作品で、開港まもない横浜港のメインストリートを描いた作品。歌川貞秀(1807-79?)は歌川国貞の門人で、横濱絵の第一人者として評価が高い。細密な描写と画面構成で鳥瞰一覧図や名所図でも活躍した。

 

伊野:絵って正直ですよね。伝わりますもんね。

伸坊:うん、面白がって盛り上がってるとね。このさ、南蛮絵研究してる先生、顔が外人ぽいんだよね(笑)。なんか分かる気がする。

いつも通りの絵描いてる時はそれなりに構図とかバランスとれてたと思うんだけど、新しいことした時ってヘンな構図になるよね。間が抜けた感じ、そこが面白かったりもする。司馬江漢とかさあ、なんでかな。

伊野:あの間の抜けた感じ、なんで出ちゃうんだろ? その時に生きている人しか描けないですよね。後でやったって、出ないんですよね、あのヘンさ。

伸坊:自分で工夫してるところが面白いんだろね。先生に習ってその通りに描くんじゃ、ただへたなところからうまくなるってだけだけど、ちゃんと描けてる絵師が「やったことない」ことやると面白くなる。

伊野:うまくなってくると収まりのいいところに座っちゃうもんですよね。それは退屈の始まりでもあるわけで。でも、やったことないことやると自分の絵じゃないみたいな気がするんですよ。あれが怖いんだけど、楽しい。

伸坊:伊藤若冲は始めっから怒る先生いないから、いろんなこと勝手に出来るんだよね。変なこといっぱいやってるじゃない、ネガ版画みたいなのとか、とつぜん点描法みたいなのまで。本人楽しいよね、何やってもいいんだから。

連載19_10_玄圃瑤華

伊藤若冲「未草(ヒツジグサ)「薊(アザミ)」(1768年)
拓版画「玄圃瑤華」より

伊野:そうか、若冲は先生がいないから自由なんだ。普通はやっぱり、先生だったり、その時代ごとに「絵はこうやって描くものだ」っていうのが自然に降り注いでいるわけですよね。

伸坊:仕事として描くとなると、それ早くマスターして「業界の常識」にのっとってやるのが一番の近道だもんね。仕事じゃなきゃ、好きでやってんだからどんなこと始めたっていい。

伊野:仕事のためにそうやって来たのに、ちょうど時代が変わって自分のやり方が通用しなくなっちゃった人もいますよね。タイミング悪いというか。

伸坊:時代からズレちゃったと思うと悲しいけど、ズレたって「好きでやってんだからいいんだ」って思えればいいんだけどね。

伊野:オレは好きでこんなことやってるぞって人に「この人面白い!」って集まってくる人と、オレは売れてるぞって人に「自分も売れたい!」って追随する人とでは、売れている人に集まる人の方が多いんでしょうね。

伸坊:あはは、そうだね(笑)。

伊野:追随するっていうのか、パクリっていうのか、人からパクられるぐらいじゃないと。売れてる証拠だから、羨ましいですよ。でも僕をパクるの難しいと思いますよ。決まったスタイルがあるわけじゃないし、僕自身がパクリみたいなものだから(笑)。

*16 横濱絵 幕末から明治時代にかけて制作された、横浜(横濱)を題材とした錦絵。「横濱浮世絵」「横濱錦絵」とも呼ばれる。横濱港が開港し西洋文化が入ってきた頃の異国情緒や、居留外国人の生活文化などが描かれた。二代目歌川広重や、歌川国芳門下の多数の浮世絵師が横濱絵を手がけている。

■時代考証よりも「絵になる」かどうか

伸坊:時代物でも伊野君は昔の人の絵そのままじゃなくて、自分がその時代に行って見てるみたいな絵描きたいって言ってたでしょ。面白いなあって思ったんだけど、でもそもそも誰も江戸時代に行ったことないわけだから、その時代のイメージって,その時代に描かれた絵で作られてるんだよね。

伊野:そうなんですよ、でも、浮世絵は様式美だから、実際の江戸時代をそのまま写しているわけではないので、幕末の写真とかと頭の中で組み合わせながら想像する。

僕だって最初は『鬼平犯科帳』*17とかをテレビで見て「江戸時代っていいなー」って思ってたわけですからね。『鬼平犯科帳』で「燗徳利」が出てくるんだけど、鬼平の時代はまだ「ちろり」*18で飲んでて、燗徳利は幕末にならないと出てこない。しかも口が広がった燗徳利は昭和も戦後から使われだしたみたいで。なのにテレビドラマの長谷川平蔵は昭和戦後の燗徳利で飲んでて、それ見て「いいねー江戸時代は」って言ってる程度ですから、時代物を描く身として恥ずかしいですよね(笑)。ま、時代考証はどこまでやるのがいいのか。『銭形平次』みたいに岡っ引きが江戸の町のヒーローなんて、そもそも現実的にありえない設定なわけで。

連載19_11_燗徳利

伊野孝行画 「燗徳利とちろり」
燗徳利が登場したのは江戸末期。それ以前はちろりが用いられた。以前、ブログで「燗徳利は首を太く描こう運動」(http://www.inocchi.net/blog/1952.html)を提唱したことがあります。(伊野)

 

伸坊:昔の挿絵画家も結構いい加減なんだよね。宮中の人の格好とか神主さんの格好とか資料が残ってるのは描けるけど。

伊野:そうそう、明治の初期に描かれた日本の神様は「美豆良(みづら)」*19を結ってないですね。遺跡などが発掘されて埴輪が出て来て、昔の日本人はこういう格好、髪型をしていたんだっていうのがだんだん分かってきて、それで「美豆良」にして描くようになった。歌舞伎とか文楽は、鎌倉時代の物語でも江戸時代の格好しているし(笑)。

伸坊:歌舞伎は分かればいいんだもん、派手ならいいだもん。

伊野:浮世絵の着物の描き方って、普通に見て描いてもああはならないですよね。だから浮世絵の着物を真似して描いても、うまくいかない。

伸坊:いろいろ工夫したんだろうね。最初の頃は着物の柄とかシワももっと適当に描いてたのが、前より感じ出る描き方が分かれば、それ真似する人が出てくる。そうやって絵になるのが残ってく。

伊野:北斎は割と写実的ですよね。歌麿とか春信は様式的。

伸坊:春信は相当パターン化してる。春信のあのほっそりスラっとしてるスタイルは中国の版本がもとになってると思う。細いつり目の女の顔も、中国の版本にああいうスタイルの絵がある。

連載19_12_鈴木春信と中国版画

(左)鈴木春信画、大田南畝『売飴土平伝』所収「阿仙阿藤優劣弁」挿絵
(『別冊太陽 鈴木春信 決定版』平凡社/2017より)
(右)『中国古典文学版画選集(下)』(上海人民美術/1981)より

伊野:若冲も中国のものが好きですね。浮世絵にはそういうのはないと思ってたけど、結構あるんですね。

伸坊:歌麿なんかは春信超えるようにもっと肉感的な「感じ」出そうとしたんじゃないかな。

伊野:春信の時は浮世絵の前例が少ないですからね。強烈な先生みたいなのがいなくて、それで中国絵画から独自の発展をしたのかなって。

伸坊:そうだね。

*17 鬼平犯科帳 池波正太郎(1923-90)の時代小説で、実在した火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(1745-95)が主人公。『オール讀物』(文藝春秋)に1968年より長期にわたり連載。現在は文春文庫で全24巻が刊行されている。テレビドラマシリーズや映画、コミック、アニメも制作されている。

*18 ちろり(銚釐) お酒を燗するための筒型酒器で、注ぎ口と把手がついている。主に錫や銀、銅、真鍮など金属製で、ガラス製もある。

*19 美豆良 角髪とも書く。古墳時代〜奈良時代の男性の髪型で、髪を中央で左右に分け、耳の近くで束ねて輪に結ぶ。そのまま垂らすものは「下げ美豆良」と呼ぶ。中世以降は貴族など上層階級の元服前の少年の髪型として近世まで存続した。

■「自由に描きなさい」という教育は間違い!?

伸坊:大友克洋さんが一度、時代物の漫画描いたことがあってさ。いわゆる時代漫画風じゃなくちょっと幕末の写真起こしたみたいな描き方で面白かった。伊野君の発想とも重なるんじゃないかな。

大友さんて空間把握能力がすごくてさ、例えば「三輪車描いて」って言われると、骨組から頭の中で構成するから、コンピューターみたいにその三輪車空中でくるくる回せる。

伊野:人間の歴史でいうと、洞窟に絵を描くよりも立体物を作る方が先ですよね。空間把握能力は原始時代で生きるに必要な能力だったろうけど、平面に置き換える能力は当面必要なかったかもしれないですよね。大友さんはその二つが出来ちゃう。

伸坊:彫刻を写生する方向はあったと思うんだよね。生身の人間だと動いちゃうし、描く側も視点動くから固定できない。いったん彫刻にしたものだったら描けるんだ、動かないから。

伊野:やっぱりギリシャ彫刻が元になっているんですか、西洋のアートって。

伸坊:って言いますよね。立体から立体に写すのは簡単っていうか、比較できるしさ。だけど、立体を平面に移すってなると、視点がその都度ずれるとか、どっちが前に来てるか感じ出さないと、とかいろいろ技が必要になる。

伊野:今は前例がいっぱいあるので、平面にする時はこうすればいいって分かりますけど、前例がないとどうすればいいんだってなるかもしれないですね。

伸坊:カラバッジョが出て、光学装置使って正確な陰影と正確な形状を掴むって発明をした。スゲエって思った人が、発明のからくりは分かんなくても、結果としてどんな風にぼかしたり影つけたりしたら感じ出るかが分かるから、工夫して違うことやったかもしれない。

伊野:美術史を長く広い目で見ていくと、写実に対してそこまで夢中になっていたのは、ごく短期間だけですよね。西洋という地域の中世から近代にかけてだけ。

編集:ピカソが写実表現を捨てた時点で、写実から離れる人が増えてきた。美術教育は相変わらずデッサンと写実を重視しているようですが。

伊野:前に日本民藝館で「カンタ」*20っていうインドのベンガル地方の貧しい家庭の奥さんが何十年もかけて作った刺繍の展示があって、それがものすごくよかったんですよ。感動しちゃって。当然、美術教育なんか受けてない。もともとみんな人間には、美しいものを作る能力が備わっているのに、むしろ教育受けたことでそれが一旦封じ込められてしまう。それに気づいた人は今度は自分で縛りを解いていくみたいな。美術教育って一体何を教えてくれるんでしょう。

連載19_13_カンタ

『民藝』No.741(2014年9月号/日本民藝協会)表紙
カンタの特集で、表紙にもカンタの作品が使われている。

伸坊:そうだね。美術教育に関しては、例えば戦前はお手本見てそっくりに描くってやってたわけじゃない。これはよく見なきゃ描けない。お手本あるとよく見たかどうか客観的に分かる。少なくとも「よく見る」って訓練は出来るんだ。自由に描きなさいっていう美術教育はけっきょく虻蜂取らずになっちゃう。

*20 カンタ インド東部のベンガル地方に伝わる伝統的刺繍工芸。サリーなどの古くなった布を重ねてキルト状に縫い合わせ、刺し子刺繍を施したもの。

■最後に再び『名作挿絵全集』の話

伸坊:伊野君のユニークなのは、同時代のイラストレーションシーンじゃなく『名作挿絵全集』っていう本を自分の教科書にしたってとこだね、それが普通のイラストレーターと違ってる。その中で自分の好きな絵を見つけた。そこで時代を飛び越えられたんですよ。

これは日本のイラストレーション創成期の人たちがアメリカやヨーロッパのイラストレーションを取り入れたってことと同じで、開拓しようって気持ちがある。いわば始めっから発想がプロだね。

伊野:そうだったのか(笑)。でも僕が『名作挿絵全集』を最初に見た時、8割方は古くせーっ! と思ったんです。でも不思議なことに、それから時々見返してると、そんな古臭く感じなくなってきて。明治の巻なんて最初はめちゃくちゃ古臭く感じてましたけど、むしろ新しい感じがするなというのもあって。僕自身が変わってきているのもあるのかもしれない。

で、戦争小説の巻もあるんですけど、猪熊弦一郎*21が描いた絵も載ってて、こういうの描いてたんだって。藤田嗣治もそうだけど、いろんな絵を描いてるんですよね、みんな。宮田重雄*22は画家の仕事も挿絵の仕事も好きで、宮本三郎*23は油絵の方は気持ち悪くて全然受け付けないけど、挿絵は達者で描写力があっていいなと思いました。

伸坊:ああ、そうそう。描写力があるからこそ出来る面白い絵って、あるよね。「ヘタうま」とはまた違う面白さがある。

伊野:そういうのを見ていくと、古臭いだけじゃないなって思いますよ。巻末に当時まだ存命中だった挿絵画家のインタビューも載ってるんですけど、昔の挿絵画家って編集者が風呂敷包に札束包んで「先生お願いします」って頼みに来るような存在だったらしいです。「当時テレビがあったら絶対出ていたと思いますね」とその人は言ってたけど、テレビがない時代だから新聞小説の価値があったわけで、「テレビがあったら挿絵画家なんてチヤホヤされないよ!」って突っ込んじゃいましたけどね(笑)。そういう栄枯盛衰を『名作挿絵全集』を通して感じたし、今のイラストレーションの状況についても一歩引いて見られるようになりました。

伸坊:いろいろ勉強になったなあ、この連載(笑)。

伊野:ハハハ。

編集:ありがとうございました。

(了)

*21 猪熊弦一郎(1902-93) 洋画家。東京美術学校(現東京藝術大学)で藤島武二(1867-1943)に師事、1936年小磯良平らと新制作派協会設立。55年からニューヨークに拠点を移し、抽象的な作品を多数制作。後年は東京とハワイを行き来しながら制作を行う。壁画制作も多数手がけ、『小説新潮』の表紙絵(1948〜87)や、現在も使われている三越の包装紙のデザインでも知られる。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に作品が常設展示されている。

*22 宮田重雄(1900-71) 洋画家。医師として病院の院長も務めた。慶應大学医学部在学中に洋画家の梅原龍三郎(1888-1986)に師事、春陽会、国画会会員となる。戦後は油彩画の他に挿絵、俳句、随筆、ラジオ出演など多方面で活躍。挿絵を担当した石坂洋次郎作「石中先生行状記」が1950年に映画化された際は主役を演じた。戦争画を描いた藤田嗣治や猪熊弦一郎らが進駐軍に日本美術を紹介する展覧会に参加したことを新聞で批判、藤田と論争を展開した。

*23 宮本三郎(1905-74) 洋画家。川端画学校洋画部で藤島武二に師事、二科会会員となる。戦時中は従軍画家として中国へ赴任。1947年には旧二科会のメンバーと第二紀会結成に参加、理事長も務めた。油彩画では花や裸婦を得意とし、小説の挿絵や女優の肖像画、旧国立競技場の壁画を手がけたことでも知られる。郷里の石川県小松市に小松市立宮本三郎美術館、世田谷区のアトリエ跡地には世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館がある。

取材・構成:本吉康成


<プロフィール>

伊野孝行 Takayuki Ino第19回伊野アイコン1971年三重県津市生まれ。東洋大学卒業。セツ・モードセミナー研究科卒業。第44回講談社出版文化賞、第53回 高橋五山賞。著書に『ゴッホ』『こっけい以外に人間の美しさはない』『画家の肖像』がある。Eテレのアニメ「オトナの一休さん」の絵を担当。http://www.inocchi.net/


南伸坊 Shinbo Minami第19回伸坊アイコン1947年東京生まれ。イラストレーター、装丁デザイナー、エッセイスト。著書に『のんき図画』(青林工藝舎)、『装丁/南伸坊』(フレーベル館)、『本人の人々』(マガジンハウス)、『笑う茶碗』『狸の夫婦』(筑摩書房)など。
亜紀書房WEBマガジン「あき地」(http://www.akishobo.com/akichi/)にて「私のイラストレーション史」連載中。

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