【和田誠×和田唱 親子対談】絵を描くこととレコーディングは似ている?(前編)
和田誠さんと平野レミさん夫婦の長男、和田唱さんはロックバンドTRICERATOPS(トライセラトップス)のヴォーカリストおよびギタリストとして音楽活動を行なっている。いつも音楽や映画が流れていた和田家で育った唱さん。今では親子で音楽談義になることもあるようで、音楽やレコードジャケットについて二人で話した初めての親子対談を「イラストレーション」No.210(2016年6月号)に掲載した。そのロングバージョンを前後編に分けてWEBでお届けする。
取材・構成:濱田高志、吉田宏子(撮影も)
取材協力:鈴木啓之
マイケルからビートルズへ
濱田(以下質問):お二人の音楽体験から聞かせていただけますか。
誠:唱の音楽体験、最初はマイケル・ジャクソンかな?
唱:いや、子どものときならヒーローものの歌。
誠:そっちのほうか。
唱:『太陽戦隊サンバルカン』(81年)とか、ああいう戦隊ものの主題歌。当時、下北沢まで、レコード買いに連れてってくれたじゃない。うち、代々木上原だから。
誠:上原から下北まで買いに行ってたんだっけ?
唱:そう。急行でひと駅なんだけど、いつも電車に乗らずに歩いてた。線路沿いの2階建てのレコード屋さん。2階が子ども向けのレコード売り場なんだよ。そこでドーナツ盤を買ってもらってた。あの頃ヒーローものの歌に夢中だったから、改編期に番組が変わるたびに連れてってくれてた。
誠:そうだったね。
唱:CDになる前だから、店のなかはほとんどレコードとカセットテープだけだったと思う。
誠:カセットあったっけ?
唱:あったと思うよ。そこの2階にトントントンって上がっていくと、新しく始まったばっかりのヒーローものの主題歌のドーナツ盤が必ずある。
テレビで放映するときはオープニングもエンディングもワンコーラスで終わっちゃうのに、レコードで聴くとイントロが長かったりして「ああ、本当はこうなんだ! テレビではカットされているんだ!」ということを知るわけ。いつもそんな驚きがあって面白かった。レコードで聴くことで、初めて全体像を知るっていうか。
だからいちばん最初に音楽が好きになったのはヒーローものです。ヒーロー番組が好きだったってことかもしれないけど。実際に音楽そのものに熱中したのは、やっぱりマイケル・ジャクソンやその後洋楽にハマってから。マイケルもどっちかっていうとヒーローものの延長ですけど。マイケルってどこか現実離れしていて、ヴィジュアルやダンス、そして音楽があったから惹かれたんです。音楽だけだったらあそこまで好きになってないですね。
音楽そのものに夢中になったのは、ビートルズということになるかな。聴き始めたのは89年あたりだから、解散して20年近く経ってる。
誠:唱がビートルズに関心を持ち始めたときのことは憶えてるんだよ。それより先にマイケル・ジャクソンが好きで、あるときテレビで『エルヴィス・ビートルズ・マイケル』って番組があって(*1)。
*1 『エルビス・ビートルズ・マイケル』
⇒日本テレビにて、開局35周年記念特別番組として1988年11月3日に放送された『また逢えてよかった・今甦るビートルズ、プレスリー、マイケル・ジャクソン世紀の熱狂ライブ! 世界初完全独占公開!!』のこと。ちなみに司会は山口美江、加山雄三、浅井慎平。
唱:コンサートやるやつでしょ。ビートルズとマイケルは日本公演で。
誠:ビートルズは武道館公演。
唱:エルヴィスはたぶんハワイかなんかのライヴ。
誠:そう。その3本を続けてやっていたのを、唱に付き合ってずっと観てたんだ。俺はたまたまその3つのアーティストの公演を全部生で観てたんだよね。
唱:そっかぁ、おとうは全部観てんのか。
誠:だから懐かしかったというわけだ。
唱:俺はマイケル以外よく知らなかったんだよね。
誠:それ観終わったら唱がすぐに「お父さん、ビートルズ知ってる?」って聞いてきた。
唱:そうそう。
誠:知ってるに決まってるじゃないかって言ったな(笑)。ビートルズのLPを何枚か持ってたから、全部あげるよって言ったのも憶えてるよ。
唱:そのテレビ放送の前後かな、渋谷の映画館にマイケルが主演の映画『ムーンウォーカー』(88年)を観に行ったんだよ。とにかく映画もいっぱい連れてってくれてた。
誠:いっぱい行ったな。『スターウォーズ』(77年)も行ったし、『E.T.』(82年)にも。
唱:そうね。マイケルに夢中になっていた時期に『ムーンウォーカー』が日本で公開されたから、それも連れてってもらったんだ。そしたら劇場ガラ空きで。ああいう映画ってやっぱり人、入んないのね。
誠:そうかもしれないね。
唱:女子高生がちょっといて、あとは俺ら二人だけ。ガラ空きの映画館で観て、俺はそれなりにしびれてさ。最後のシーンでマイケルが「Come Together」を歌うんだよ。マイケルの曲はほとんど知ってたから、てっきりマイケルの新曲だと思って「最後の曲だけ知らなかったなあ…」って言ったら、おとうが「あれビートルズの曲だよ」って教えてくれたの。
誠:あ、そうだったか。
唱:俺は驚いて「え、そうなの? なんで知ってるの?」って、そういう感じだった。それでオリジナルを聴いて以来、俺のビートルズの時代が始まる。
——和田さんはビートルズに惹かれていく唱さんをどういうふうにご覧になっていました?
誠:どんどん好きになっていくっていう少年時代の気持ちはわかるんですよね。唱はあの頃、小さなプレイヤーを持ってたよね。
唱:赤いプラスチックの子ども用のレコードプレイヤー。それでいつもヒーローものを聴いてたんだ。レコードも子ども向け、プレイヤーも子ども向け。ヒーローもマイケルも俺の世界だったけど、ビートルズになると、「おとうもライブ行ったことあるよ」みたいな話をするようになって。ビートルズは俺の世代のバンドではなかったから、いろいろ聞いたよね、「コンサートどうだったの?」って。
誠:俺、武道館で聴いたわけだから。
唱:それがいまだに羨ましくて。「どうだった? どうだった? 思い出して、思い出してよ!」って。あの公演については音が全然聴こえなかった説と、いや聴こえたよっていう説といろんな証言があって。でも、こんな近くに証人がいるので確かめられた。で、どうだったんだっけ? 聴こえたんでしょう?
誠:聴こえたよ。二階席にいたのかな。見渡すと上のほうまでぎっしり客が入ってた。そういうイメージで憶えてるね。
唱:それが羨ましいんですよ。ぼくマイケルはリアルタイムで体験出来たけど。そんなわけで、ビートルズ以降はロックにも興味を持って、バンドでデビューしたあとは、ジャズとかにも興味を持ち始めて、自分が生まれる前にこんな音楽があったんだって、どんどん知りたくなって。何て言えばいいんだろ、ロマンというか…。今でも自分が生まれる前のレコードを持っているっていうことだけで、すごく嬉しくなる。ジャケットだって、こんな紙切れなのに、ぼくより長い時代を生きてるわけじゃないですか? 敬意を表さずにはいられないんです。

対談が行われた和田誠さんの事務所の階段の壁には、ベン・シャーンらの絵とともに唱さんが子ども時代に描いた絵も飾ってある。唱さんがここを訪ねるのは20年以上ぶりなのだとか。
子どもの頃からスタンダードが身近にあった
——和田さんのご自宅には和田さんのコレクションがたくさんあったと思いますが、唱さんはそれらをどんなふうにご覧になってたんですか?
唱:子どもって、親が聴いてるものをあえて聴かなかったりするじゃないですか。ぼくもそうでした。親が聴いてるものを聴いてる人って、そんなにいないでしょ。なんとなく父のレコードが流れていたとは思いますが。
誠:しょっちゅうかけてたからね。
唱:うちのリビング、昔はかっこよかったんですよ。壁に古い映画のポスターが貼ってあって。だけど、男の人と女の人が一緒に住むと、段々変わっていくんですよね。ぼくも経験ありますけど。それの最たる例がうちの実家ですよ。超かっこいいウッディの棚なんだけど、それがだんだんアンティークの食器とかに侵食されて、今じゃお母さんの意見のほうが強いんじゃないの?
誠:うん、強いな(笑)。
唱:昔のヨーロッパ製のポットみたいなのが、グワーって飾ってあって。昔はね、ぱっと見た感じは戸棚なんだけど、そのなかにスピーカーが設置されていて、音が聴こえてくるようになっていて。今は外観は当時と同じだけど、開けるとスピーカーの代わりに皿なんかが入ってるよね。
誠:食器がいろいろ入ってる(笑)。
唱:でも、男の人はなんにも言えないよね。
誠:そりゃそうだ。母ちゃんはなんでも入れちゃうから。
唱:ま、ともかく話を戻すと、ぼくが父親のレコードをかけなくても、常にスタンダードソング(*2)が流れている家庭でした。どっちかっていうと、レコードよりもビデオがよく流れてたかな。
*2 スタンダードソング
⇒「スタンダード」とは文字通り「標準」「規準」を意味することば。音楽の世界では、50年以上に亘って標準であり続ける、つまり多くの音楽家たちによって、時間を越えて今なお歌い継がれ、演奏され続けている曲を一般的に「スタンダード・ソング/ナンバー」と呼んでいる。
誠:リビングでしょっちゅう映画を観てたからね。
唱:よくミュージカル映画を観てたでしょう。そういう音楽がいつも流れてた。だから、スタンダードソングとかジャズには、なんとなく子どもの頃から馴染んでるんです。演歌や歌謡曲はほとんどかからなくて、ジャズやスタンダード、もしくは母親のシャンソン。よくコンサートのために練習してたじゃん。
誠:うん、やってたね。
唱:子ども心にジャズやスタンダードはいいなって思ってたんですよね。だから大人になって以降はどんどん調べ始めましたし。でもシャンソンには一切行かなかった(笑)。
誠:小さい頃に銀巴里(*3)に行ったことはあっただろ。
*3 銀巴里
⇒1951年–1990年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶店。
唱:あったあった。俺にとってはシャンソンはちょっと湿っぽいっていうか、演歌っぽく響いたんだろうな。だけど、そんななかにも気に入ってたメロディもあって。
誠:「枯葉」なんかはその後スタンダードになってるからね。
唱:子どもの頃から触れてきたから、音楽を作る上でベースになってる。
あと俺がちっちゃいときは、お客さんがしょっちゅう遊びに来てたじゃない?
それも一人や二人でじゃなくて、ものすごい数の大人たち。あれはなんだったの? うちでは夜な夜なパーティが行われてたわけ?
誠:夜な夜なってほどじゃないけど。
唱:子どもには、夜な夜なって感じだった。
誠:そうか(笑)。
唱:ピアノ演奏とかやってたよね。だからやっぱりミュージシャンでしょう?
誠:ピアノ弾いてたのは八木正生(*4)さん。八木さんは料理が好きだから、フランス料理をパパッと作ってくれてさ。で、母ちゃんが作ると、八木さんはぼくに「彼女の料理についてなんかエッセイ書けば」とか言うの。八木さんの言うことなら聞こうと思って書いたら、しばらくすると、別の婦人雑誌が「料理を写真に撮りたいから、作ってくれたらうちの雑誌に載せますよ」みたいなこと言ってきて。それが掲載されたら、ほかからもどんどん料理の注文が来て、それが今に続いてるんだよ。母ちゃん、今はやたらにテレビでそんなことやってるけどね。
*4 八木正生
⇒(やぎ まさお、1932年11月14日 – 1991年3月4日)は、日本のピアニスト・作曲家・アレンジャー。八木さんのアルバム『inga』(78年)のジャケットを和田さんが手がけたほか、和田さん監督作『快盗ルビイ』(88年)『怪盗ジゴマ 音楽篇』(88年)の音楽と編曲を八木さんが手がけるなど互いに縁が深い。
——やたらにって、それが本職じゃないですか(笑)。
唱:今やね。でも、元々は本職じゃなかったもんね。
誠:少しずつそういう仕事が多くなってきたんだ。
唱:とにかく、ウイスキーの匂いとタバコの臭いが充満していたのを憶えてる。人が来るたびに「挨拶しに行きなさい」って言われて。ぼくは人見知りだったから、なるべく部屋にこもっていたかったんだけど。でも、なんとなくそこにいなきゃいけないことも多くて…。女の人は香水付けてるし、リビングが別世界の匂いになってて。いまだに香水とウイスキーとタバコが混じった匂いを嗅ぐと、あの大人の世界を思い出す。家のなかは喫煙OKだったし。
誠:それは平気だったな。
唱:そういう時代だよね。みんなタバコ吸ってた。
誠:時代的には、うちは上原時代とその前の青山時代があっただろ。
唱:青山時代、俺はちっちゃすぎて憶えてない。断片的には憶えてるけど。
誠:青山時代もそういう来客は多かったんだよな。
唱:どんな人が来てたの? 渥美(清)さんとかでしょ。
誠:渥美さんは毎週のように来てたなあ。そもそもは永六輔。永さんの紹介で渥美さんが来た。で、永さんが可愛がっていた坂本九ちゃんが来るって感じ。毎週金曜日がすごかったんだ。
あるとき永さんが「我々も年食ってきたから、もう少し体を大事にしなきゃいけない」って言い始めて。外苑の絵画館あたりをジョギングするようになって、ぼくも付き合ってて。それでジョギングの会に誘われた人が、その流れでどんどんうちにも来ちゃうわけよ。いつも十人くらいは来てたかな。
ジョギングしたあと、「腹減ったなあ」ってことで、みんなでビール飲んで。だから金曜日は夕方頃から集まり始めて、くだらないこと喋ってたね。「映画の題名でしりとりしようよ」とか。
唱:それなかなか高級な遊びだよね。俺がいいなって思うのは、集まる人の職種がちょっとずつ違うってこと。今はそういう横の繋がりってあまりないよ。ミュージシャンならミュージシャンだけで集まるし。
誠:そんななかに黒柳徹子さんもいたからね。
唱:あの時代ならではなんじゃないの? 今なんてみんな範囲が狭くなっちゃって、ドラム飲み会とかあったりするんだけど、ドラマーだけで100人くらい集まっちゃうらしいよ。でも、ヴォーカル飲み会っていうのはないのよ。ヴォーカリストは近い人たちと集うことをしない。ドラム飲み会、ベース飲み会は、でっかい座敷を貸し切りにしてやるんだって。でも近い人たちで集まって機材の話とかしてもねぇ(笑)。そう考えると永さんや渥美さん、徹子さんがいて、みんなちょっとずつ違うじゃない。そこがいいよね。
誠:職種は違うけど、なんとなく同じサークルにいるんだよね。
唱:あの時代ならではなんじゃないかって思う。
シナトラを知りたくて、海外雑誌を読み込んだ
——和田さんは歌謡曲も結構聴かれてますよね
誠:昔からラジオで流れてたから。小学生とか中学生くらいのとき、うちではラジオが流れっぱなしだったんです。
唱:じゃ、原体験はなんなの? 音楽を好きだなって思ったきっかけって。
誠:歌謡曲だけだと、あんまり音楽を好きにはならないんだよね。「リンゴの唄」とかああいうのが流れてくるわけだから。
唱:当時の歌謡曲ってそういう歌か。ぼくが今イメージするのは昔のニュース映像で流れてるやつ。
誠:そう。それで中学生くらいになると、NHKの進駐軍放送を聴くわけ。それだとジャズやスタンダードソングが聴こえてくる。毎週一回フランク・シナトラの番組があって、二、三日経つと今度はビング・クロスビーの番組があって。その時間になるとそういうのが聴けるから、それを聴くうちに中学生のくせにシナトラが好きになったんだね。
唱:反応しちゃったんだ。それ何年くらい? 1940年代? シナトラといっても、まだ楽団にいた頃でしょう?
誠:そうそう。トミー・ドーシーのオーケストラにいた頃。
唱:不良っぽいイメージになる前だ。シナトラが不良っぽいイメージになるのは50年代に入ってからだよね。最初はもうちょっと正統派で朗々と歌ってたでしょう。
誠:最初はそうだな。音楽的にも徐々に明るいリズムのものを取り上げるようになって、段々ジャズっぽくなる。
唱:それは俳優としても成功したからなのかな。
誠:それもあるね。最初に成功したのは『地上より永遠に』(53年)で、あの映画でアカデミー賞の助演男優賞をもらったからね。
唱:それ以前はいい子ちゃん役も多いよね。ジーン・ケリーと出てる…
誠:『錨を上げて』(45年)とか。
唱:そうそう、水兵さんの映画。ジーン・ケリーのほうが華があるというかね。シナトラは、まだ魅力が発揮できてない感じがあるよね。
誠:『錨を上げて』のあと、『踊る大紐育』(49年)でも二人が一緒に出てたけど、ジーン・ケリーはやたら踊るから。
唱:当時ジーン・ケリーのほうが知名度が上だったの?。
誠:ちょっと上だね。
唱:『錨を上げて』では、シナトラまだ新人っぽかったもん。でも、そのあとガーンと越えてっちゃうんだ。
誠:そうだね。
唱:でもさ、シナトラを知るきっかけがラジオだったら、最初はどういうビジュアルの人かわかんないよね。シナトラが載ってる雑誌なんて当時はあまりないでしょう。
誠:たまに「LIFE」に載ったりしてた。洋書を扱う書店に置いてあって、インタビュー記事とかが出てるわけだ。
唱:でも、全部英語だよね。
誠:そう。辞書引きながら一生懸命読んだよ。シナトラがディーン・マーティンとサミー・デイヴィスJr.を仲間に入れて、サミー・デイヴィスが自伝みたいなのを本にしたんだけど、そんなのもすぐに買ったからね。ぶ厚い本だから英語を読んでると、途中で段々しんどくなる。
唱:ずっと辞書見なきゃいけないもんね。
誠:しかも、その頃はサラリーマンだったから時間もないし。
——会社勤めしながら音楽に傾倒したり、友人関係が広がったりっていうのは、自然発生的なものなんですか。
誠:会社に勤めてる頃に、八木正生さんと知り合ったんですよ。で、八木さんの奥さんがジャズ・シンガーの後藤芳子さんだから、彼女が六本木やなんかのライブハウスに出る時は、会社が終わってから会社の同僚を誘って聴きに行ってたんです。
唱:そこでジャズなんだ。
誠:そう、入門はジャズだった。それ以前、高校一年か二年の時には、学校をサボって、浅草の国際劇場にサッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)のライヴを観に行ったりしてた。
唱:その頃って、まだ晩年じゃないもんね。ルイ・アームストロングはバリバリ現役でしょ。それを観てるって、ビートルズどころの騒ぎじゃないよ。ビートルズを観たって人は探せばそれなりにいるだろうけど。
誠:ビートルズを聴くよりも遥か前だよ。
唱:そういえば、うちのバンドが15周年で日比谷の野音でライヴをやったとき(*5)に、シナトラの初来日公演のことを話してたじゃん。それを聞いて「フランク・シナトラ、日比谷野音」でネットで調べたけど、そんなデータはどこにもなかった。去年あたりからYouTubeにそのときの映像がアップされてるんだけど、あれが初来日なんでしょう? 野音でやった翌日にどこかのクラブでもやったんだよね。
*5 日比谷の野音でライブをやったとき
⇒2012年7月21日開催のTRICERATOPS『15TH ANNIVERSARY TOUR』於:東京日比谷野外音楽堂
誠:昼間に野音でやって、その日の夜にミカドっていう赤坂のほうにあった店でやったんだ。それにも行きたかったんだけど、チケットの金額が高くてそっちには行けなかった。
唱:セレブが行ったんだ。
誠:そうだね。それに比べて野音は数百円だったから、会社サボって観に行った。勤めていた会社が銀座だったからね。あれは1962年だな。
唱:シナトラの初来日は話題になったの?
誠:わりとね。その頃は今ほど有名じゃなかったけど。
唱:シナトラって、キャピトル時代(*6)が全盛と言われてるけど、60年代だともうキャピトルじゃないでしょう。
*6 キャピトル時代
⇒シナトラは、1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、1952年にキャピトル・レコードと専属契約。ネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、新曲を多数録音した。1950年代後半にキャピトルから発表されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものが多く、この時代をシナトラの最盛期とする批評家は多い。
誠:61年にリプリーズ(*7)を立ち上げるからね。
*7 リプリーズ
⇒1960年代に入ってから、シナトラ自身が個人レーベルとして設立したレコード・レーベル。
唱:で、その62年の来日のあとずいぶん経ってから来日したでしょ。確か85年に武道館でやったときにおとうが行ったの憶えてるよ。
誠:行ったね。
唱:そのあとに三人でコンサートやったじゃない。サミー・デイヴィスJr.やなんかと。89年かな。
誠:もう一人はライザ・ミネリだ。
唱:そうだ。ディーン・マーティンと三人で来日する予定だったのが、急遽変わって、ライザ・ミネリになったんだよね。それには俺は行ってないけど、子どものとき、お母さんが「今日はお父さんとシナトラ観に行くのよ」って話してたのも記憶にある。
そのあと91年に横浜アリーナに来たよね。それに一緒に行ったんだ。夫妻の歌手(スティーヴ・ローレンスとイーディ・ゴーメ)が前座だったのを憶えてる。だから俺もシナトラは生で観てるんだよ。
誠:俺は福岡でやった最後の来日公演(94年)にも行ったよ。さっき話した89年の公演は、大阪城ホールまで行った。あのときは、バリトンサックスの原田忠幸さんが、日本のオーケストラのリーダーをやってたのね。彼のことは昔から知ってたから、ホールの入口あたりでお互いに気付いてね、原田さんが「明日の朝、シナトラが会場の駐車場で稽古するから良かったら来て」って声をかけてくれたんだ。翌朝、駐車場に行ってみたら、本当にシナトラが公演の前に駐車場のがらんとしたところにバンドを入れて練習してたんだよ。
シナトラが「Ol’ Man River」を歌っていて、それをすぐそばで聴いたよ。近くにマイクがあったと思うんだけど、ほとんど生声だったね。91年のときにはライヴの前に来日歓迎パーティーみたいなのをやるって聞いたから、かあちゃんと一緒に行ったんだよ。
唱:それがあの写真かあ。
誠:そう。パーティで何人かがシナトラと一緒に写真を撮り始めて、それを見た母ちゃんが「私たちも撮りましょう!」って、シナトラのそばに行ったわけ。で、俺が母ちゃんを指して「マイ・ワイフ」ってシナトラに紹介して彼の横に立ったら、「きみのワイフをここに入れなさい」と言って、彼と俺の間に母ちゃんを入れて。こっちは昔からのシナトラ・ファンだから、彼の隣に並びたかったんだけど。
唱:そりゃそうだね(笑)。
誠:しかも、シナトラが「君のワイフはビューティフルだ」なんて言うからさ、母ちゃん喜んじゃって。うちに飾ってある写真はそのときのだよ。
——写真が残っているんですね。
唱:うちに飾ってるんですけど、シナトラがいて母がいて父がその横。でも元の写真では、シナトラのもう一方の横にも別の夫妻がいるんですよ。つまり、シナトラを真ん中にして二組の夫婦が写ってた写真。ところがうちの母親は横の二人が邪魔だって言って、はさみで切っちゃった(笑)。それをうまい具合にフレームに入れて飾ってある。でもいい感じにシナトラがうちの両親側に肩を入れて本当に三人で撮ったように見える。だけど、もうひと組の夫婦も、同じようにうちの両親の部分を切って、額に入れてるかも知れないですよ(笑)。
レコードは当時の環境で聴くのが楽しい
——唱さんは、幼少期から無意識にスタンダードソングを耳にしていたわけですが、とりわけシナトラを意識したのは何がきっかけでしたか。
唱:シナトラの歌のうまさは知っていましたし、映画も観ていたので馴染みはあったんです。だけど学生時代はロックに夢中だったから、自分でシナトラのレコードを聴こうとは思わなかった。そのすごさは認識していましたけど。
例えば、マイクを手に持って歌った最初がシナトラだったとか。それまではマイクスタンドに据えたまま歌うのが普通だったそうですね。そういったことを全部父から教えてもらいました。
誠:「LIFE」のシナトラのインタビューに書いてあったんだよ。シナトラは歌うときにマイクスタンドを手に持つのが癖になっていて、なんとなくスタンドを指でいじっていたら、無意識のうちにネジを外しちゃったんだって。で、そのままマイクを口元に持っていって歌ったところうまくいったので、その後はずっとそういう歌い方をしているって書いてあった。今では当たり前のことだけどね。
唱:そういうことを子どもの頃に聞いてたから、シナトラのことは身近に感じではいたけど、自分から聴くようになったのは、レコードを買い集めるようになってからだから、30歳を過ぎた頃。ここ10年くらいの話です。
——アナログで聴く機会が多いんですね。
唱:80年代以前の作品って、元はレコードだったわけじゃないですか。だとしたら、それらはCDではなく、元々のフォーマットであるレコードで聴いたほうがいいのかなって思うようになったんです。しかも当時のスピーカー、プレイヤーで聴くのが一番いいんじゃないかって。レコードが発売された当時の環境で聴きたいという衝動に駆られて、いろいろ調べたら、海外オークションで手に入ることがわかって。
——きっかけはなんだったんですか?
唱:ビートルズのレコードをモノラルで、それこそ当時の古い機材で聴きたい、つまりビートルズをちゃんと当時の音で聴きたいって欲求が湧いたのが最初だと思います。最初はロックのレコードばかり聴いてたんですけど、徐々にヴォーカルものを聴き出して、ジャズだったらシナトラだったりエラ・フィッツジェラルドだったり、サッチモだったり。でも、ジャズで歌ものって脇役なんですよね。中古盤屋でも隅のほうにあったりして。やっぱりトランペットとかサックスが主役。
だけど、ぼくはそうしたインストに全然興味がなかったんですよ。そんなときにたまたまマイルス・デイヴィスのレコードを目にして、まあ有名だし、ちょっと聴いてみようかって感じで、中古盤を買って聴いたらすごくかっ
こよくて。あぁ、これ全然いいじゃないか!って。それからインストものも分け隔てなく聴くようになりました。
——和田さんは唱さんがそうした音楽を聴き始めたことに気づいていましたか。
誠:唱がたまに実家に帰ってくると、「俺、最近レコード買ってんだよ。ジャズ聴いてんだよ」って話すし、「何かお薦めのない?」って聞かれたりするようになりましたからね。
唱:ホレス・シルヴァーとか、薦められたよ。
誠:ああ、そうか。
唱:リアルタイムで聴いてたんでしょ? ぼくなんて本当に後追いですよ。で、すごくハマるきっかけになったが、マイルスの『Walkin’』(54年)。最初に買ったのは中古の日本盤だったので、しばらくすると、やっぱりオリジナル盤が欲しいなって思って、ebay(*8)で買っちゃった。
聴き始めて分かったのが、ジャズのほうが、ロックよりもベースとかがものすごい迫力で聴こえるってこと。遥か昔のレコードなのに。ジャズのウッドベースをレコードで聴くと、ロックよりも本当に迫力があって。
*8 ebay
⇒世界28ヶ国に拠点を持ち、 出品点数10数億点の地球規模のインターネットオークションサイト
誠:レイ・ブラウンとかいいもんね。
唱:エレクトリックベースは今でこそちゃんと録音出来るけど、初期のロックはエレクトリックベースをちゃんと録音出来なかったんじゃないかと思う。それこそ、ビートルズですら。だから、ジャズはなんでこんなにもいい音なんだろうって感じるし、ジャズをレコードで、古いスピーカーで聴くのが今はすごく好き。
今日はお気に入りのジャケットを持って来て、その話もしようってことなんだけど、このシナトラの『Come Fly With Me』(58年)もさ、オリジナル盤だよ〈図A〉。
誠:おっ、それを持って来たのか。

図A:『Come Fly With Me』
唱:オリジナル盤の何がいいって、ジャケットの色味がさ、全然違うんだよ。インクがいいのかな。復刻したものって輪郭がぼやけてたり、いかにもコピー商品って感じになっちゃう。でもオリジナル盤のジャケットってすごくきれいでしょう?
誠:特にこれなんかは絵だしね。写真の良さもあるわけだけど、絵だと色彩がちょっと派手に見えるしね。
唱:このアルバムはすごくいいよ。あと、ジャズでも、ビッグバンドだとまた全然違うよね。シナトラって、スモールコンボで歌わないでしょ? きっとビッグバンドが好きだったんでしょ。
誠:出身がそうだったから。最初はハリー・ジェイムスのバンドで、そのあとトミー・ドーシーに引き抜かれて彼のバンドで歌ってたからね。
唱:晩年もずっとそうだったじゃない。トニー・ベネットは割とスモールコンボでもやるでしょ。だけど、シナトラはああいうゴージャスなほうが向いてたし、好きだったみたいだね。
誠:あとは、シナトラに呼ばれるアレンジャーたちが、皆ビッグバンドのアレンジがうまい人たちだったしね。
唱:ネルソン・リドルとかでしょう。
誠:そう。ほかにもドン・コスタとか、いいアレンジャーがついてたから。
唱:しかも、この頃は一発録りだもんね。オーバーダビングの技術がないから、1テイクでの録音。シナトラは抜群にうまかった。やっぱりあの不良性を持ちつつ、うまいってところが、シナトラ最大の魅力なんじゃないのかな。
——そういったスタンダードを聴き始めて、自身で作曲するうえでの作風の変化はありましたか?
唱:んー。昔のスタンダードって、今の曲とは完全に作りが違うんです。どこから変わったのかな。スタンダードって、ヴァース(*9)っていうのがあるじゃないですか。ロックではできないですからね、あれ。ぼくは根本的にその違いについてずっと思うところがあって。そうしたスタンダードの要素をロックに持ち込めないかなっていうのを考えています。
中途半端にブレンドさせるよりも、思いっきりジャズっぽいことをやったほうがいいのかなと思ったり。でもぼく、普段からコード進行とかはジャズやスタンダード的なコード進行と、それとは全く違う黒人音楽的なリフを合体させたりしてるんですよ。
*9 ヴァース
⇒フランスではクープレと呼ばれ、歌の前説のようなもの。その歌をとりまく状況を具体的に説明する歌詞である場合が多い(和田誠著『いつか聴いた歌』より)。
誠:ブレンドしてるね。
——和田さんはいつ頃から唱さんが曲を作っていることに気付かれましたか?
誠:ずいぶん前。うちで弾いたりもしてたからね。メロディが印象に残ってる曲もあります。
唱:グッとくるメロディラインっていうのは、明らかに子どもの頃から染みついているよ。
——和田さんはディズニーがお好きですけど、ディズニー映画の音楽からの影響はありますか?
唱:最初に観たディズニー映画は何?
誠:ミッキーマウスか何かの短編じゃないかな。映画館で観たのは。
唱:ほかにも『トムとジェリー』とか『ポパイ』って、作られたのが1940年代から60年代にかけてで、まだ一般家庭にテレビが入る前でしょう。どこで観てたわけ?
誠:予告編みたいな感じで映画本編のオマケでやってたんだ。日本映画の前につくアニメだと、『フクちゃん』(*10)だったり。
*10 『フクちゃん』
⇒横山隆一原作による同名漫画の主人公。1942年から1944年にかけて、松竹動画研究所の手によるアニメーション映画が3作品制作され、82年にはテレビアニメ化された。
唱:やっぱりディズニーはさ、音楽がいいよね。
——子どもの頃に好きだったディズニー映画の楽曲はありますか?
唱:『白雪姫』(37年)の「Some Day My Prince Will Come」とか。
誠:とても美しい曲だったな。
唱:あれ、マイルスもやってるよね。ビル・エヴァンスをはじめ、いろんな人がやってる。デイヴ・ブルーベックって人の『Dave Digs Disney』(57年)っていう、全部ディズニーの曲をカヴァーしたアルバムがあるんだけど、知ってる?
誠:知らなかった。
唱:ジャケットの真んなかにブルーベックがいて、周りにミッキーマウスやドナルドダックとかがいるわけ。あの絵、どう見てもオフィシャルじゃない感じなんだけど、当時は権利もゆるやかだったのかな。
誠:そういえば、初めて『白雪姫』を観た中学生の頃に、7人の小人を粘土で作ったんだよ。
唱:それ知ってる。白い石膏みたいなやつでしょ? あと子どもの頃にミッキーとかポパイの絵も描いてたよね。
誠:そうだな。しかも、英語なんて出来ないからね、台詞をローマ字で書いてたりしてた。
唱:(和田誠さんが描いたミッキーマウスなどの絵を眺めながら)「My name is Mikky Mouse.」、「kora(こら)」、「Me o mawashita (めをまわした)」とか、よくこんなさ、ローマ字の筆記体で書けたね。当時、小学生でしょ。
誠:低学年だったよ。
——幼少期といえば唱さんも絵を描かれてますね。
唱:俺は自主的じゃなくて頼まれて描いただけ。小遣いかせぎで。
誠:いまだに印税が入る本もある。
唱:絵を描くのは、好きだった。
誠:これね、兄弟揃って描いたんだ。(*11)
*11 兄弟揃って描いた
⇒「ひもほうちょうもつかわない 平野レミのおりょうりブック」(1992年:福音館書店刊)
唱:人物は全部弟が描いたんです。俺は食器を描いた。自分で自主的に描いた絵は『親馬鹿子馬鹿』(83年)っていう本になってます〈図B-1,2〉。

図B-1:『親馬鹿子馬鹿』(講談社刊)書影

図B-2:『親馬鹿子馬鹿』本文挿絵
誠:ちっちゃい頃、床屋さんのぐるぐるまわる看板(サインポール)を見たあと、描いたりしてたな。
唱:そのうち記憶では飽きたらずに、いろんな“ぐるぐる”を創作してた。3、4歳くらいのときかな。
誠:ぐるぐる回るのが好きで、扇風機も描いてたよ。
唱:回るものには目がなかったみたいですね。(和田唱+誠『親馬鹿子馬鹿』を見ながら)これなんて完全オリジナル、ポールになんか付いちゃってる。小さい頃の絵っていいですよね、ルールや常識に縛られていないので。食器を描く頃はもう、変にうまくなっちゃって。
誠:丁寧に描いてたと思うよ。
(2016年1月25日:和田誠事務所にて 後編につづく)
プロフィール
わだまこと わだしょう |